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Number 1.司馬光、total 1 picture

司馬光

司馬光(1019年- 1086年)は、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。字は君実。陝州夏県(山西省)の人。号は迂叟。また涑水先生と呼ばれた。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。

1038年(宝元元年)に進士となる。父も祖父も進士であった。

1067年(治平4年)、神宗は即位し、王安石を用いて新法を断行する。このように朝廷の意向に反対の立場をとっていた司馬光であるが、先代の英宗以来、神宗からも絶大な信頼を得ていた。特に『資治通鑑』の編纂を思い立った後、英宗に特別の便宜を与えられてその完成を期待されていた。また神宗の新法に反対して都を出て行った司馬光であったが、逆に神宗から「資治通鑑」なる名を貰っている。なお、この書は司馬光の洛陽隠棲時に完成した。

1085年(元豊8年)、神宗が崩御して哲宗が10歳で即位すると、摂政宣仁太后高氏の命により、宰相となって中央に復帰した。この時、司馬光は、新法を全面的に廃止し、全て新法実施以前の法に戻すべく政権を運営したが、余りの極端さに、同じく新法の廃止を主張する友人・部下からも反対されるほどであった。斯くして新法の廃止に全力を注いだ司馬光であったが、在任8ヶ月にして病死した。死に際しては、知見未見を問わず、多くの人々が惜しんだと、旧法派関係の史料は口を揃えている。
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